亀石は、まだ
西を向いていない。
明日香村、1400年間誰も知らない石
田んぼの畦のそばに、石がある。重さはおよそ10トンだという。誰が作ったのか、わからない。なぜ作ったのか、わからない。いつ作ったのかも、よくわかっていない。
明日香村川原の田んぼに、亀石はある。飛鳥時代(6〜7世紀)の遺物と推定されているが、それ以外はほとんど何もわかっていない。
「新羅から来た石工が作った」という説があるらしい。「川原寺の境界を示す標石だった」という説もある。「別の石像を作ろうとして、途中で放棄された」という説もある。どれも根拠が薄く、定説にはなっていないとされる。
稲が揺れている。トラクターの音が遠くから聞こえる。1400年間、この石の前に立った人間は誰ひとり、答えを持っていない。
むかし、この一帯は湖だったという。川原の主のナマズと、対岸・当麻の主の蛇が長い争いをした。蛇が勝ち、湖の水を当麻へ持ち去った。湖は干上がり、そこに棲んでいた亀がみな死んだ。哀れに思った村人が、亀たちを供養するために彫ったのがこの石だ——と伝わっている。
亀石はかつて北を向いていた。次に東を向いた。今は南西を向いている。「亀石が西(当麻の方角)を向いたとき、大和国一円は泥の海に沈む」という予言が伝わっているらしい。現在は、あと一段階のところにある。いつ向きが変わったのか、記録はない。気づいたら変わっていた、という状態が続いてきた。
「西を向いたとき、大和は泥の海に沈む。」現在は、あと一段階のところにある。
大和川の難所「亀の瀬」地区(奈良県柏原市)の地質調査では、古代に大規模な地すべりが起き、大和川がせき止められ、奈良盆地の一部が実際に湖水状態になっていたことが確認されているとされる。湖の伝説が、実際の地質イベントを記憶していた可能性がある。
飛鳥の時代、亀は「玄武」だった。四方を守護する四神のうち、北方を担うものだ。同じ明日香村のキトラ古墳(7世紀末〜8世紀初頭)の石室北壁に、亀と蛇が絡まる玄武の壁画が残っているとされる。
当時の飛鳥地域には、大陸から渡ってきた人々の子孫が多く暮らしていたと記録されている。謎の石造物の多くは、こうした人々が作ったと考えられている。亀という形が選ばれたことの理由には、大陸の宇宙観がある気がする。
帰りがけに、もう一度だけ振り返った。石は相変わらず、どちらとも言えない方向を向いていた。
「亀石」という名が先行しているだけで、本当に亀を模しているかどうかも、誰も確かめていないらしい。上下逆さまに置かれている可能性があるという報告もある。目が上に飛び出した三角形の顔から「カエル説」もあるという。見れば見るほど、よくわからなくなる。それが、1400年間ずっとそうなのだと思った。