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絵馬の前身は、生きた黒馬だった。 — yoinn journal

東吉野村 / 丹生川上神社中社
yoinn journal
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Niukawakami / Rain

絵馬の前身は、
生きた黒馬だった。

丹生川上神社、雨を呼ぶ700年間の慣習

境内に入ると、絵馬が並んでいた。願い事を書いた小さな板が、軒下にずらりと掛かっている。あの形の起源として、この神社の名が挙がることがある。

1
黒馬で、雨を呼ぶ
Summoning Rain with a Black Horse

763年(天平宝字7年)、旱魃が続いた。朝廷は奈良南部の山中にある神社へ使者を送り、黒馬一頭を奉納した。

論理はこうだ——雨雲の色は黒い。だから黒馬を捧げれば、雨が来る、とされていた。雨が多すぎるときは逆に白馬を奉納したとされる。色が天候を呼ぶ、という発想で、朝廷は吉野の山奥の神社に馬を引いていった。

神社の名は、丹生川上神社。記録にある初出は763年の『続日本紀』で、「旱続きのため、丹生川上には加えて黒馬を奉った」とある。

雨雲の色は黒い。だから黒馬を捧げれば、雨が来る。

止雨(晴れを祈る際)に奉納した馬の色については、白馬のほか赤馬・青馬とする記録も存在し、諸説ある。

2
700年間、96度
Ninety-Six Times over Seven Hundred Years

763年の初回から、応仁の乱が始まる1467年まで。700年間で、朝廷はこの神社に96度の奉幣祈願を行ったとされる。7〜8年に一度のペースで、国家が正式に使者を派遣し、馬を奉納し続けた。

天候を制御できないことが、国家の存亡に直結していた時代の話だ。不作は飢饉になり、飢饉は反乱になる。朝廷にとって気象は政治問題だった気がする。

応仁の乱(1467年)以降、朝廷の財政が著しく低下すると、奉幣は途絶えた。戦乱の混乱の中で、この神社は場所ごと忘れられていく。あれほど頼り続けた神社の所在を、朝廷はわずか数十年の戦乱で完全に見失った。

中社にあたる東吉野村の神社は、戦国時代に「蟻通神社(ありとおしじんじゃ)」という別の名で呼ばれるようになっていたとされる。地元の人々はその神社が古代の丹生川上神社だとは知らずに何百年も祀り続けた。大正11年(1922年)に正式に社名が改称され、本来の名を取り戻した。

丹生川上神社中社 / 東吉野村・高見川沿いの社殿
丹生川上神社中社 / 東吉野村・高見川沿いの社殿
3
馬が、板になるまで
From Horse to Wooden Tablet

生きた馬を神前に引いてくる慣習は、費用も手間もかかる。朝廷や貴族には可能でも、庶民には無理だった。代わりに土製・木製の馬形(うまがた)が使われ始め、さらにそれが簡略化されて、板に馬の絵を描いた「絵馬」になったとされる。

その後、絵馬から馬の絵が消え始める。馬の代わりに、願い事の内容を絵で表す形式に変わっていったのは江戸時代頃のことだという。合格祈願・縁結び・病気平癒——今日の絵馬に書かれる言葉に、黒馬で雨を呼んだ慣習の面影はない。

起源から数えると、絵馬が「馬でなくなる」まで約1000年かかったことになる。

絵馬が「馬でなくなる」まで、起源から約1000年かかった。

絵馬の発祥については諸説あり、貴船神社(京都)など複数の神社が発祥地として知られる。現存最古の絵馬は7世紀中頃のもので、大阪・難波宮跡から出土しているとされる。

丹生川上神社中社 / 境内
丹生川上神社中社 / 境内

2012年、下社の境内に白馬と黒馬の神馬が復活したとされる。室町時代以来、約600年ぶりの復活だという。白ちゃん・黒ちゃんと呼ばれるその二頭は、夕方の時報とともに自分たちで小屋へ帰る、と聞いた。黒馬で雨を、白馬で晴れを——という論理が、600年の時を経て再び境内に戻ってきた。境内に掛かった絵馬は、今日も風に揺れていた。

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