見物客は、いない。
見ているのは死者だ。
十津川村、盆に先祖を迎える踊り
8月13日の夜、十津川村小原地区で踊りが始まる。14日は武蔵、15日は西川。三日間、集落の人々が踊り続ける。見物客という役割は、ここにない。
十津川の大踊は、観光客が加わって楽しむ踊りではない。集落の老若男女が全員踊り手として参加する構造で、「見物人」という立場が制度的に存在しない。踊り手しかいない踊り場に、観客席はない。
踊りは死者のために踊られる。お盆の期間に現世に戻ってきた先祖の霊を迎え、ともに踊り、盆が明けたら送り返す。踊ること自体が供養であり、儀礼だ。踊り場を取り囲む切子灯籠の灯は、霊道の目印とされる——暗闇を照らして、死者がこの世と彼岸の間で迷わないようにするための道案内として、笹竹に吊るされている。
太鼓のテンポが段階的に上昇して最高潮に達したとき、「弱い奴はまくり出せ」という掛け声が上がるとされる。死者への供養が、絶叫とともに頂点を迎える。
踊り手しかいない踊り場に、観客席はない。見ているのは、この夜だけ現世に戻った死者だ。
2022年、十津川の大踊はユネスコ無形文化遺産「風流踊(Furyu-odori)」に登録された。紀伊半島の盆踊りの中でも最も古い儀礼的構造を原形に近いまま保持しているとされる。
明治初年の廃仏毀釈によって、十津川村にあった51の寺院がすべて廃絶された。僧侶は還俗し、寺の建物は取り壊された。以後120年近く、寺院が再興されない時代が続いた。
それでも、踊りの中の「ナムアミダブツ、さあおどらいで」という歌詞だけは消えなかった。公的な仏教施設が全滅した後も、民俗芸能の内部に念仏が生き残った。
十津川の大踊の起源は、平安末期から鎌倉時代にかけて広まったとされる「踊り念仏」の系譜にあると考えられている。念仏を唱えながら踊ることで霊を浄土へ導く——その信仰が、各地の盆踊りへと変化していったとされる。「ナムアミダブツ」という言葉が消えなかったことが、この踊りの性格——死者への供養という儀礼的な核——を保ち続けた気がする。
農作業の服に笠で顔を隠し、あるいは女装して踊りに加わることを、十津川では「化けて出る」と呼ぶ。匿名性が担保されることで、普段は踊らない人間も踊りに紛れ込める。集落の人々は「あれは誰か」と詮索しながら楽しむ。
「化けて出る」という言葉を分解すると、その意味は重層的だ。「化ける」とは変装することであり、同時に幽霊・怪異が姿を変えて現れることを指す言葉だ。「出る」は「幽霊が出る」の「出る」でもある。死者が戻るお盆の夜に、生きている人間が顔を隠して踊り場に紛れ込む行為を、「化けて出る」と呼ぶのは偶然ではないかもしれない。
仮装した生者と、戻ってきた死者が、同じ踊り場に混在する。誰が生者で誰が死者かを問わないことが、この踊りの前提になっている。見物客がいないのは、全員が当事者だからだ。
死者が戻る夜に、生者が顔を隠して踊り場に紛れ込む。それを「化けて出る」と呼ぶ。
西川地区の永井集落では、もともと川原で踊っていた。川は「この世とあの世の境界」とされてきた。お盆に戻ってきた先祖の霊は川原に集まる。そこで踊り、灯籠を川に流して霊を送り返す——川原での踊りと灯籠流しは、霊を迎え・もてなし・送り出すという一連の儀礼として地続きだった。
1889年(明治22年)8月、集中豪雨が3日3晩続き、十津川村を壊滅的な洪水が襲った。西川・永井では川原が流失した。踊り場が物理的に消えた。踊りは校庭へと移り、灯籠を川に流す作法もやがて形を変えていった。
同じ水害で、村の人口の約20%にあたる2,691人が北海道へ集団移住し、翌年「新十津川村」を建設した。90年後、北海道の新十津川町は武蔵踊保存会から大踊りの正式な伝承を受けた。今も新十津川の子どもたちが武蔵の集落に泊まり込んで踊りを伝授される交流が続いているという。水害が引き裂いた共同体が、踊りで繋がり続けている。
1970年、大阪万博への出演を機に、60分以上あった踊りは約30分に短縮されたとされる。文化財を守るための出演が、踊りの形を変えた。それでも踊りは続いている。毎年8月の三日間、十津川村の三つの集落で、死者を迎え、ともに踊り、送り返す夜が繰り返される。観客のいない踊り場で、見ているのは誰かという問いには、この土地の人々は答えない。