生きたまま、
死の稽古をする。
逆修という慣習について
自分の葬儀を、自分で依頼する。喪主は自分だ。経を読まれるのも、戒名を授けられるのも、自分だ。儀式が終わっても、自分はまだ生きている。高野山では、これを「逆修(ぎゃくしゅ)」と呼んだ。
仏教に「追善供養」という考え方がある。死者のために経を読み、功徳を積む。その功徳が死者に届いて、あの世での苦しみを和らげる——という発想だ。
逆修はこの順序をひっくり返す。死後に他者が行う供養より、生前に自分が行う供養の方が功徳が大きいとされた。死を待ってから誰かにやってもらうより、今、自分の手でやった方がいい。
「逆」は時間に逆らうという意味ではない。死という出来事に先んじて動くことだ。受け身ではなく、能動的に死に備える。準備の問題として、死を捉え直す。
空海が入定したこの山は、「あの世に最も近い場所」として信じられてきた。奥の院には今も空海が生きている——そう信じる人々にとって、高野山で死の準備をすることは、あの世の入り口で手続きを済ませることに近かったのかもしれない。
平安から鎌倉にかけて、貴族や武将が高野山に登ったのはこの論理があったからだとされる。戦場に向かう前、あるいは死期を悟った時、人々はこの山を選んだ。藤原道長が晩年に逆修を行ったという記録が残っている。
死を恐れていたのではないかもしれない。ただ、準備が間に合わないことを恐れていたのだろう。
死を恐れていたのではないかもしれない。ただ、準備が間に合わないことを恐れていたのだろう。
逆修で何が行われたのか、詳細は文献によって差があるとされる。
共通しているのは、戒名を授かることだ。戒名とは本来、仏門に入る際に与えられる名だが、日本では死者に授ける慣習として定着した。逆修ではそれを、生きているうちに受け取る。以降、その人は二つの名を持つことになる。この世の名と、あの世の名。
法要が営まれ、僧侶が経を読む。対象は目の前にいる生者だ。喪われていない命のために、弔いの言葉が読み上げられる。棺を用意したかどうか、何日間かけて行われたかなど、儀式の細部は記録によって異なる部分がある。
奥の院には20万基を超える石塔・墓碑が立ち並ぶとされる。戦国武将、江戸の商人、現代の企業——時代も身分も関係なく、人々は空海の傍に石を置いた。
その中に、生前に建てられたものが混ざっている。
生者の碑と死者の碑が、区別なく同じ場所に並ぶ。どちらが死者のものか、外見からはわからない。逆修とは、生と死の境界を意図的に曖昧にする行為だったのかもしれない。死者の場所に生者が紛れ込む。あるいは、生者の場所に、まだ死んでいない死者が先に立つ。
「終活」という言葉が定着して久しい。エンディングノートに希望を書き、生前に葬儀社と打ち合わせをし、自分の死後を自分でデザインする。逆修と、何が違うのか。形は変わった。読経はなく、戒名もない。しかし「死を、先に済ませてしまう」という発想の核心は同じだ。高野山が平安期に先取りしていたものは、名前を変えながら今も続いている。五條から車で40分。その山は今も、誰かの「稽古」を受けている。