師は、死ぬ三ヶ月前に
待っていた。
空海と恵果、密教の伝承について
奥之院の参道に入ると、空気が変わる。杉の木が高くなり、光が変わり、自分の足音が小さくなる。燈籠が並んでいる。それだけのことなのに、なんとなく、早く歩いてはいけない気がする。
空海が唐へ渡ったのは、経典を求めてではなかったとされる。経典はすでに日本にあった。写本も翻訳も注釈も。
密教は「口伝(くでん)」で伝わる。師から弟子へ、声と手と身体で渡される。文字にすれば、それは密教ではなくなる、とされている。だから空海は、人のいる場所へ行く必要があった——書物の前ではなく、師の前に立つために。
海を、渡った。
長安の青龍寺で、空海は恵果に初めて会った。805年の夏のことだ。老僧はこう言ったとされる。「我先知汝来」——お前が来ることは、知っていた、と。
なぜそう言ったのか。周囲の弟子たちには理解できなかっただろう。初対面の、異国の若い僧に対して、老いた師がそう言った理由。記録はあるが、理由は書かれていない。
初対面の言葉が、「お前が来ることは知っていた」だった。
密教には「胎蔵界」と「金剛界」という二つの体系があるとされる。宇宙の真理を、異なる角度から描いた両部の曼荼羅だ。通常、この二つを一人の弟子に同時に授けることはなかったとされている。
恵果は空海に、両方を渡した。
その年の12月、恵果は死ぬ。時間がなかったのか。それとも空海だけが受け取れる相手だったのか。おそらくどちらも少しずつ本当なのだと思う。書き残せないものを、生きているうちに渡す必要があった。
恵果(746〜805年)は中国・唐の密教僧。インドから伝わった密教の正統な継承者とされ、胎蔵界・金剛界の両部を一人の弟子(空海)に初めて伝えたとされる。
空海はいまも高野山の奥之院にいるとされている。入定、と言う。死ではなく、深い禅定の状態のまま、弥勒菩薩が現れる未来まで待っているのだという。参道の突き当たりにある燈籠堂の前で、少し立ち止まった。灯りが揺れていた。誰かが手を合わせていた。それだけのことが、なんとなく、ずっと続いているような気がした。